ナカス・メモ

あまり書くことなし

トイストーリーと実存主義、カルヴァニズム(ネタバレ含)

 『トイストーリー』、説明不要の名作です。僕はトイストーリーを観て育ちました。豊かでかわいらしいキャラクターに感動的なシナリオ。幼い僕は魅了され、『1』と『2』は比喩ではなくVHSが擦り切れるくらい観ました。『3』は家族で劇場に行きました。初めての3D映画に胸を躍らせました。『4』の公開時は大学生でしたが、女子学生に囲まれてでも初日に劇場に足を運びました。

 成長してからトイストーリーを観るにつけ、僕は本作に実存主義とカルヴァニズムを見出すようになりました。今回はそれについて簡単に言及していきます。なお、僕は哲学科の人間でも宗教学科の人間でもないので、なにかマズイ点があればご指摘お願いします(などと言い訳をしておきます…)。

 『1』では主人公ウッディの持ち主であるアンディの家にバズ・ライトイヤーがやってきます。当初、バズは自分を本物のスペースレンジャーと信じて疑わず、おもちゃであることを認めませんでした。しかし、自分のテレビCMの「このおもちゃは飛びません」の文を目にし、自分をおもちゃだと認めると同時に絶望し発狂します。その後、ウッディの協力もあり、彼はおもちゃとしての自分を受け入れます。

『1』をまとめると、「自分はおもちゃじゃないと思っていたバズが自分はおもちゃだと知り、自分のおもちゃとしての宿命を受け入れる」話です。

 『2』では、今度はウッディに骨董品としての価値があることが判明します。つまり、ウッディは「自分は確かにおもちゃだが、ある面ではおもちゃではない(骨董品でもある)」という現実に直面します。前作のバズとは逆です。「おもちゃではないと思っていたのに実はおもちゃだった」バズと「おもちゃだと思っていたのに実はおもちゃではない(「おもちゃ以上の価値」がある)」ウッディの対比になります。

 しかし、「おもちゃ以上の価値」というのは人間の側からの太鼓判に過ぎません。おもちゃ自身が得られるメリットは絶対的な保護くらいのもので、ウッディは、それは自身の哲学に反し、「おもちゃらしくない」として、アンディの元に戻ることを決意します。ウッディは、あくまでもアンディのおもちゃであることに拘りました。

 『3』では、とうとうアンディが大人になり、ウッディたちは今度こそ「おもちゃではなくなる(ゴミになる)」という窮地に立たされます。後半で焼却炉で燃やされる寸前、全員で手を繋いで覚悟を決めるシーンがありますが、あれはまさに、運命を受け入れ、神の前に自らを曝け出している姿でした。結局、リトルグリーンメンの「カミサマ」によって救われることとなります。サニーサイド幼稚園での騒動を経て、ウッディたちはアンディの家に戻ります。バズたちはアンディの実家の屋根裏部屋にしまわれることを覚悟し、ウッディと別れを告げます。しかし、彼は仲間と運命を共にすべく、屋根裏行きの段ボールに潜りこみます。しかし、アンディはそのおもちゃの入った段ボールを屋根裏ではなく、ボニーという女の子に譲ります。

 アンディはおもちゃ用の段ボール箱に入っていた、大学に連れて行くはずのウッディを見て、彼もボニーに譲ることにしました。アンディがウッディを、彼の望むところへ送り出してやったように思えます。

『1』〜『3』に共通しているのは、ニーチェのいう運命愛だったり、カルヴァニズムにおける天職の考え方です。「自分たちはおもちゃなんだから、それを認めて何があっても持ち主に尽くそう」というものです。

 かなり物議を醸した『4』ですが、今作でトイストーリーは大きく転換します。

 ボニーの手に渡ったウッディは、彼女に気に入られませんでした。あまり相手にされず、フラストレーションが溜まる日々。たまたま足を踏み入れたアンティークショップで、かつての恋仲のボーと再会します。誰の所有物でもなくなったボーは、移動遊園地と共に各地を巡り、たくさんの子どもたちと遊んでいました。その姿を見て、ウッディの今までの「おもちゃは誰かのおもちゃとしているべきだ」という信念が揺らぎます。また、ゴミから作られたため、自分をおもちゃと認めなかったフォーキーに、おもちゃとしての自覚を持たせること、また、持ち主のいないおもちゃを新しい持ち主に斡旋することに成功したウッディは、誰か特定の子どもと遊ぶおもちゃとしての仕事に終止符を打ち、他のおもちゃに持ち主を見つけるマネージャーの仕事をしようと決心します。彼はボーとその仲間たちと共に残留することを決意、相棒のバズやジェシー、ブルズアイ、スリンキーといった面々とも別れを告げます。

 『4』においては、今まで絶対視されてきた「誰かのおもちゃである」という価値観が一気に否定されます。ウッディは危機に陥ることで、自身の築いてきたおもちゃ哲学に悩むことになります。

 結論として、『1』〜『3』では「天職」や「運命愛」的な、所与の条件で人生のあり方を限定する概念に縛り付けられていたウッディが、『4』でそれらから脱皮したという形になります。余談ですが、今回『4』についてはなるべく聞こえよく書いていますが、個人的には最近観た映像作品の中では比較的退屈(ダッキー&バニー、デュークカブーンは良かった)で、しかも最も強い怒りを覚えた作品でした。念のため。

 「実存は本質に先立つ」とサルトルは言いました。現実には、おもちゃはもちろん「おもちゃ」として、子どもたちが遊ぶために作られるわけですが、もし、おもちゃたちが自我を持ったとしたら、その本質は人間と同様、実存に先立つのか?それとも、やはりおもちゃは「おもちゃ」に過ぎないのか?トイストーリーに内包されるのはおもちゃの問いであり、人間の問いであります。消費社会批判の代表的な被批判者である、ディズニーからの問いです。