ナカス・メモ

あまり書くことなし

キリンジの『3』

 キリンジ。もはや説明不要であると思うのでバンドの概略は省略する。

 僕がこのアルバムと出会ったのは、仙台で大学受験のため浪人をしていた時だった。岩手県の田舎町から東北一の大都市仙台に暮らしを移したのは大変な環境変化だった。

 僕がいた予備校は仙台市内の進学校出身者が半数を占めた。僕の出身高校からは僕と同じ予備校で浪人する生徒は誰もいなかった。元々コミュニケーションが得意でないので、友人はただの1人もできなかった。本物の孤独を経験した。

 そんな時分に出会ったのがキリンジだった。ツイッターで熱烈なキリンジファンのフォロワーさんがいたので、興味を持ったのだ。インターネットで調べたら『3』の名前が出てきたので、とりあえずそれを聴くことした。

 『グッデイ・グッバイ』『車と女』『エイリアンズ』『千年紀末に降る雪は』など魅力的な曲が多く、捨て曲なしと言えるアルバムだが、僕が特に衝撃を受けたのは『アルカディア』だった。

 もう12月だった。じわじわと2度目の受験が現実味を帯びてくる時期だった。性格が楽観的でないので、精神的に相当追い詰められていた。

 僕は予備校で自習することを好まず(浮いているのが余計目立つので)、知っている顔のいないドトールやヴェローチェなどの安いコーヒーショップで勉強するのが常だった。いつも一番安いブレンドコーヒーをホットで頼んだ。

 普段コーヒーにミルクは入れないのだが、ある日だけブレンドコーヒーにミルクを注いだ。ミルクがコーヒーの熱で対流する様子を観察した。だんだんとコーヒーとミルクの境い目は曖昧になった。「永遠と刹那のカフェオレ」であった。

 平常の生活に絶妙なアナロジーを発見したことに興奮した。現にその興奮を今でも強烈に覚えているし、たぶんこの先も忘れることはないと思う。堀込泰行も、コーヒーにミルクを注いだ時のこの対流に、永遠と刹那のアナロジーを見出したのだろうか? それが真がどうかはさておいて、僕にとって明確に芸術体験と呼べるものは、これが初めてだった。

 こうした機会を与えてくれたキリンジは、『3』は、『アルカディア 』は、僕の人生においてかなり慎重な意味を持ち続けるだろう。「芸術による精神の貧困の救済」という空論にも思える芸術論を、キリンジは立証した。僕にとってキリンジは、芸術に最も近い位置にいるバンドだ。